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「エリザベスタウン」感傷に浸ったっていいだろ?

自分の責任で巨額の損失を与え会社の存続すら危うい。すべての視線が自分に注がれる。死んでしまいたい。電話が鳴り、父が故郷で亡くなったと言う。行かざるを得ない。

「傷心の旅」はあるものだ。俺にも経験がある。解決すべき問題が山ほどあるのに、数十年もろくに帰ったこともない故郷に帰る道。どれほど気が重いか。町並みはすっかり変わり、昔あったなじみの店は跡形もない。

サントラ, ナンシー・ウィルソン, トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ, エルトン・ジョン, ヘレン・ステラ, ライアン・アダムス, マイ・モーニング・ジャケット
パラマウント映画提供「エリザベスタウン」オリジナル・サウンドトラック
オーランド・ブルームが失意の青年ドリューを演じる。自殺しようとする場面がある。妙な仕掛けを作り、本気で死ぬとは思えない演技が微笑ましい。

ドリューの他、誰も乗っていないオレゴンからケンタッキーへの飛行機。気さくでチャーミングなアテンダント、クレア。俺のお気に入り、キルスティン・ダンストが演じる。面倒見が良く、ドリューの憂鬱を察知して一生懸命励ましてくれる。連絡先の書いたカードまでくれる。いい子じゃないか!
     キルスティン
ケンタッキーの田舎町「エリザベスタウン」。会ったこともない親戚が大勢いて、町中あげて父親の死を悼んでいる。なにやら楽しげなパーティ気分。無邪気で伝統を守る善良なアメリカ人たちの姿だ。父親のミッチェルは町の人たちに愛されていたようだ。

町の様子はドリューの気分とは食い違う。父親の遺体を見ても言葉がない。(このあたり、ドリューのカマトトぶりに苛々します)。用意された安モーテルは、結婚式をするために集まった人たちで満員。廊下まで乱痴気騒ぎだ。センスのない不細工な新郎新婦と、その友人たちの描き方が底意地悪くて笑う。

孤独なドリュー。携帯で恋人や家族に片っ端から電話をかける。誰も出ない。俺も外に出たときそうだ。部屋で一人。電話をかけまくるが誰も出ない。メイルの返事も来ない。寂しい。傷心の旅ならいっそう人恋しい気持ちが募る。カードをくれたクレアにも電話をしてみる。

しばらくすると、次々に電話がかかってくる。そんなもんだ。俺にも同じことがしょっちゅうおこる。

「ちょっと待って、すぐかけるから。え?他にどんな大事なことがある?いいから待って。あ、エレン?話したかった!あ、待って!出かけないで!そのまま。おお、クレア!電話くれた!話したかった!ちょっと待って!!え?だから、そう。それで?さよなら?え?エレン、どういうこと?待って。だから、すぐ来てって言われても。。。あ、クレア!あ、エレン!!・・・」

とにかく失意の底なのだ。恋人のエレンはジェシカ・ビールがゴージャスに演じている。綺麗!迫力ある!でも、会社を破産させるような男とはさよならだ。駄目男はつらいぜ。

「やっと私の番?」と携帯で話しはじめるクレア。家に着き、着替え、風呂に入り、その間中ずっと話し続ける。ドリューもトイレに入り、着替え、ビールを飲み、ベッドに入り話し続ける。充電もちゃんとしながらね。

俺にも同じような思い出がある。そんな馬鹿な、と思う奴は思え。女の子と徹夜で電話で話し続け、なお飽きたらず、これから会おう、と言って、翌朝一緒に日の出を見たことがない人には言われたくないね。

細部がセンチメンタルに出来ていていいのだ。重なってくる音楽も、アコースティック・ギターの響きが心地よい。ピックでかき鳴らすアコードが胸に染みる。

夫の告別バンケットで、妻役のスーザン・サランドンが、妻役というより、スーザン・サランドンそのものの貫禄あるスピーチを見せる。ひどいシモネタ・ジョークを言ったかと思うと、ゆったりとしたタップを踏んでみせる。夫の死のショックをそのような形で乗り越えていこうというメッセージだ。前向きなことが大好きなアメリカ人らしい、いい場面だ。

無邪気なアメリカ人たち。死生観も人生観も日本の常識とは大きく異なる。いい悪いの話ではない。伝統にうるさい南部でもあのような表現が許されるのが、アメリカの面白いところだ。頑固なおじいちゃん、おばあちゃんたちにまで大うけ、という描写がされている。まあ、あくまで映画の中での話だが。

クレアは本当にいい子だ。どんどん先回りして面倒見のいいところを発揮する。寂しいドリューにつき合って一晩ベッドをともにする。そんないい子いないよな。

この映画の大枠は「Boy meets Girl」だから、ちゃんと向かうべきところに向かっていく。それぞれ、寂しいときの「substitute people」(エキストラ、みたいなものですね)だったのが、なくてはならない関係になっていく。うるわしい展開です。

この映画に乗れない人は多くいると思う。監督自身が自分の思い入れだけで作った作品だからだ。10人見たら、8人までは、「感傷に流れて、都合のいいバカ女が出てくる駄作」と思うだろう。そう思うなら勝手に思え。俺はこの映画に深く思い入れる。甘い感傷に浸る。

ケンタッキーから、南部の有名な場所をたどりながら車で走っていく場面。俺もオクラホマからアーカンソーまで車で走ったことがある。古い田舎町を見たり、岩山、深い谷、湖、乾燥地帯。そしてどこまでも続く広い空!!そんな南部の風景が懐かしく感傷に浸った。

オーランド・ブルームは演技が下手だ。なんだか切実さが感じられない。顔は綺麗だが、深みを感じない。あの程度じゃ、俺の師匠から相手にされないよ。ちなみに師匠評価は「全然!」。厳しい師匠です。まわりを支える重厚でゴージャスな俳優と、いい音楽がこの映画の「感傷」を支えている。

おまえらにはすすめない。俺だけが思い入れを持って見て感傷に浸れたらいい。キルスティン好きなら見ろ。自然でチャーミング。キルスティンの映画、と言ってもいいな。キルスティンと友達になったような気分だ。いい子だよ、クレアは。俺は気に入った。

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「鬼火」 ルイ・マルの時代

アルコール依存の治療のため精神病院のアルコール病棟に暮らすアラン。治療の効果も現れ退院する日も近い。心を開いて受け入れてくれる仲間も多い。一方で遊蕩の日々の仲間たちはその変貌を囁き、アランの人生も終わりだ、と容赦のない陰口を言う。
      鬼火
アランは次々に昔の友人、恋人、仲間に会いに行く。その先々でことごとく失望を味わう。友人たちを拒絶して自暴自棄になっていく。

エリック・サティのピアノ曲が、モノクロームの美しい画面に重なる。主人公アランを演じる、モーリス・ロネは渋いハンサムだ。ジャンヌ・モローの美貌も見られる。奥行きのある白と黒の映像を見る楽しみは多い。ベルサイユからパリへ。町並み、車の形、店、カフェ、ホテル。
         ジャンヌ・モロー
「ヌーベル・バーグ」と言われた映画作家、ルイ・マル。昔、流行った。もはや古典だ。若い頃、この「鬼火」を劇場で見て、主人公の虚無が格好良くて二度続けて見た。ものすごく共感したつもりだった。

若い頃は何も知らないのにすべてを絶望して虚無に憧れたりするものだ。「絶望」のなんたるかも知らず。稼ぎもせず。

今またこの映画を見て、アランの心情がよくわかる。映画として、アランの脇を、笑い崩れる若い少女たちが通り過ぎたり、様々な技法を使ってアランの絶望と世間の断絶を表現していることに気づく。若い頃にはまったく気づかなかった。映画表現として良くできている。冒頭にスタッフロールが出るのにも意味がある。周到に作られた作品だ。
ルイ・マル「鬼火」 鬼火1
だが、あまりに脆弱なアランの思考に共感できない。死に取り憑かれた人間が、なにがあっても自死を選ぶ心理状態が描かれている。「自殺」というものが、アランが最後に手紙に残すように、くだらない「あてつけ」なのだ、と言えばその通りだ。

「ざまみろ!俺はおまえらに一生忘れない傷をつけてやる!」という企図。そこにはなんら深い思索はない。「誇大自己」のはた迷惑な自己顕示だ。そのことをあからさまにしている点で優れている。

ルイ・マルはこの映画のアランは自分自身だ、と言っているそうだ。この映画を冷静に撮ることで自殺をしなかった。

アルコール依存から立ち直るのは相当困難なようだ。3年も断酒して、たった一杯飲むと、ものすごく苦しむそうだ。映画の中に出てくるが、「最悪なのは、それで身体が慣れて元通りになること」。

懐かしい映画だった。

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