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「アイ アム サム」(6)聖愚者としてのサム

テーマ:(あ行)(う゛)

サムは、ルーシーの愛情によって救われる。裁判の戦略ではなくルーシーの行為が状況を変えた。ミシェル・ファイファーは、サムの「優しさ」に救われる。最後は「聖愚者」の勝利だ。

放浪画家、山下清のドラマがあった。芦屋雁之助が嬉々として演じていた。「清はんは足らんところがあるけど心はきれいや!」っちゅうわけや。

関わった人たちはみんな幸せな気持ちになって「聖愚者」を崇める。仙台に「仙臺四郎」 と呼ばれる実在の人物がいた。仙臺四郎 がぶらりと立ち寄って気に入られた店は繁盛する。いかに四郎さんを接待しようとも、気に入らない店はつぶれた、という逸話がある。「福の神」として、仙台や東北地方にはあちこちに「仙臺四郎」の絵が貼ってある。

作品は爽やかに終わる。審理で親権を争う相手の家庭とも心の交流が生まれ、ルーシーを中心に、それぞれが失われた愛情や傷ついた心を癒すことになる。里親の心情も描写され、彫りの深い映画になっている。

ミシェル・ファイファーの好演、ショーン・ペンの捨て身の演技、ダコタ・ファニングの奇跡。他にもいい役者が揃って幸福な作品になった。アーニー、検事のターナー、サムの仲間たち、里親の女性。説得力のある演技だった。

それにしても前提となる、産んですぐいなくなる女とか、サムの父親の無責任な態度はどうなんだ?犬や猫と同じだ。そこにこだわっていたらこの映画全体が無意味になる。そういうもんだ、と受け入れるしかない。

サムとルーシーの今後の幸せを祈りつつ今回で終了。面白かった。

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